狩野派のスーパースター狩野永徳とは何者?特徴や有名な作品までわかりやすく解説します。

室町時代

概要

生没年 1543-1590年
時 代 室町時代
居住地 京都
分 類 狩野派
特 徴 優れた細密描写、大スケールの作品
代表作 唐獅子図屏風、聚光院障壁画
洛中洛外図屏風 など

狩野派の繁栄の基礎を築いた

狩野永徳は室町時代・狩野派最盛期の中心人物です。

天下統一を成し遂げる織豊政権の御用絵師(お抱え絵師)になることで、日本史上最長の画派集団である狩野派が繁栄した基礎を築きました。

永徳は織田信長の安土城や豊臣秀吉の大阪城、聚楽第の障壁画など、大スケールの作品を多数手がけました。

永徳は満47歳という若さで死去。死因は過労死とも言われています。

細密描写も自由自在

永徳は祖父元信から学んだ細密描写を得意としており、特に後述の洛中洛外図屏風や大徳寺聚光院襖絵など初期の作品では、その繊細な筆致を見ることができます。

大画様式を編み出す

大画様式とは、画面いっぱいにモチーフを大きく描く様式のこと。

画面いっぱいに描かれたモチーフは勇ましく、モチーフ以外を雲や金地で多くことで華やかに、そしてモチーフをより際立たせました。

多数の障壁画を手掛け、多忙を極めた永徳は、大量注文にも対応できるこの大画様式を編み出したと言われています。

大画の雄大で華やかなイメージは戦国大名らが好み、新たな流行となりました。

有名な作品

洛中洛外図屏風

洛中洛外図屏風 狩野永徳 1561-1573年上杉博物館 (写真引用元)

洛中洛外図屏風とは京都の景観や風俗を描いた屏風絵。「洛」とは「都」のこと。都の中と外を描いた絵ということです。

数ある洛中洛外図屏風のなかでも初期の作品で、足利氏の依頼により制作後、上杉謙信に贈られたため「上杉本」と呼ばれています。

描かれている人は約2500人。行事や名所などが季節の移り変わりとともに緻密で繊細に描かれ、見るに飽きない作品となっています。

永徳20代前半に制作したこの作品によって、彼が繊細な表現に優れた才能があることが世に知られました。

国宝・洛中洛外図屏風(上杉本)をパソコンからご覧いただけます - ギャラリー洛中洛外
48枚の陶板にて再現した洛中洛外図屏風(上杉本)をパソコンで見ることができます。1枚1枚の陶板を拡大してじっくりご覧くださいませ。また「見所」ボタンで、屏風に関する説明もご覧いただけます。

【外部リンク】ギャラリー洛中洛外 高画質の洛中洛外図が見れるだけでなく、各所の見どころまで紹介されています。※PCサイトのみ対応

大徳寺聚光院襖絵

花鳥図 狩野永徳 1566年 大徳寺聚光院 国宝 (写真引用元)

大徳寺にある聚光院の襖絵。永徳と父松栄が2人で手掛けた作品で、全46面あるうちの24面を永徳が描きました。

祖父元信譲りの繊細描写が見て取れる作品で、この作品がきっかけとなり代替わりしたとも言われています。

唐獅子図屏風

唐獅子図屏風 狩野永徳 1582年 224.2×453.3cm宮内庁三の丸尚蔵館(写真引用元)

30代後半に描いた作品。

織田信長の御用絵師(お抱え絵師)になって以降、多忙を極めた永徳がクオリティを保ちつつ将軍からの要望にも答えられるようにするため、「大画様式」を生み出した頃の作品です。

メインで描かれている獅子(ライオン)は画面に大きく描かれ、ほぼ何も描かれていない背景には金箔が貼られることで、獅子がより一層豪華に、猛々しく見えます。

日本でライオンが飼育されるようになったのは1902年。永徳はライオンを生で見ることなく、この絵を描きました。

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