狩野派とは
狩野派は、日本絵画史最大の血縁関係に基づく画家集団。
共同制作やモチーフのパターン化を行い、室町時代以降武士の中で高まる絵画需要にも対応し、約400年もの間、日本の絵画界の中心として君臨し続けました。
時 代 1460-1908年頃(15~19世紀)
地 域 京都→江戸
流 れ 唐絵の流れを継ぐ
創始者 狩野正信
発 展 狩野永徳
最盛期 狩野探幽
特 徴 職業画家・共同制作・パターン化
題 材 木・建物・動物など
絵画需要の高まりから職業画家になった武家
狩野派の発展以前、絵画は宮廷や社寺で主に描かれており、宮廷にはお抱えの絵師がいました。(絵所)
室町時代になり武家が力をつけてくると、武将たちも自らの権力を誇示するためにお抱えの絵師を持つようになり、室町幕府も職業画家を雇うようになりました。(御用絵師)
そこで活躍したのが狩野派の始祖である狩野正信でした。
正信の出自は武家。武家はこれまで遊び(余技)としてしか絵を描くことがありませんでしたが、正信は遊びではなく仕事として絵画制作に打ち込むことができました。
また、僧侶でなかったことにより、宗教にとらわれない絵画を描くことができ、幅広い顧客層を持つことにつながりました。
大量注文に耐えられるよう集団制作に
狩野派は、「一人の絵師が一つの作品を最初から最後まで仕上げる」という、これまでの絵画の常識を捨て、集団で一つの作品を制作しました。
集団制作体制を取り始めたのは江戸時代初期頃。狩野派の繁栄とともにこれまで以上に注文が殺到したことから、「大量注文を受けても耐えられる制作体制」を考え、この組織的な体制が完成しました。
集団制作体制を取ることで、構成や重要な部分は人気の絵師に、単純な作業は弟子などに任せることができ、効率的な制作が可能となりました。
パターン化でクオリティを保つ
狩野派は、ある程度決まった構図や図案・仕上がりの雰囲気などをパターン化することで、作品のクオリティを保つことに成功しました。
上 桐鳳凰図屏風 狩野探幽 六曲一双のうち右隻 17世紀中頃 サントリー美術館
中 鳳凰図屏風 狩野常信 六曲一双のうち右隻 17世紀後半 東京藝術大学
下 桐松鳳凰図屏風 狩野伊川栄信 六曲一双のうち右隻 19世紀前半 静岡県立美術館
モチーフごとのポーズや構図、筆遣いを「型」として本にまとめられており(粉本)、狩野派の画家たちは、注文を受けたらその型からモチーフを選び組み合わせてことで、素早く一定以上のクオリティで描くことができました。
そのような理由から、狩野派の絵師たちには、個人の個性ではなく、先代の構図や筆法を忠実に学ぶことが求められました。
有名な作品
狩野永徳「唐獅子図」
狩野派最盛期・室町時代(安土桃山時代)の絵師、狩野永徳の作品。永徳は織田信長の御用絵師となり、狩野派繁栄の基礎を築いたと言われています。
この頃、モチーフを画面に大きく配置する「大画様式」が確立され、今日よく見る狩野派の絵の様式となりました。
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