幻の国宝!琳派の「松島図屏風」2作品を比較します

江戸時代

琳派の松島図屏風とは

「松島図屏風」とは、琳派の画家、俵屋宗達と尾形光琳がそれぞれ描いた作品です。

琳派とは?わかりやすく解説
概要尾形光琳 紅白梅図屏風 MOA美術館時 代 17世紀中頃~19世紀 断続的に継承桃山時代〜近代地 域 江戸・京都創始者 本阿弥光悦・俵屋宗達発 展 尾形光琳・酒井抱一流 れ やまと絵特 徴 断続的に継承された流派装飾的...

「松島図」と呼ばれますが、日本三景の「松島」を描いた作品ではなく、大阪の住吉付近の海岸を描いた作品でした。

かつては荒磯屏風(あらいそびょうぶ)と呼ばれていましたが、光琳に私淑した酒井抱一が、松と島を描いた図として「松島図屏風」と呼んだことからこのように呼ばれるようになりました。

現在では、この2つの松島図屏風は、日本にあれば国宝級の作品であるため、「幻の国宝」とも呼ばれています。

それぞれの「松島図屏風」を比較!

俵屋宗達 松島図屏風

松島図屏風 俵屋宗達 17世紀前半 152×355.7cm フリーア美術館(アメリカ) (引用元)

自然さとデザイン性を両立

こちらは琳派の創始者・俵屋宗達の作品。

金泥と墨を重ねた線で激しく波打つ海をダイナミックに表現した作品。
海の色を金で表現することで、浮き上がる岩々はまるで蓬莱山を連想させ、荘厳な印象を受けます。

一方で岩の表現は誇張した緑や青を使用して描かれ、画面にアクセントを与えたデザイン的な構成となっています。

幻の国宝

大坂の豪商が作成を依頼し、堺市にある祥雲寺に寄贈されたものとされています。

宗達の代表作の一つですが、明治時代後半にアメリカに輸出されたこともあり、1960年代まであまり存在を知られていませんでした。

現在フリーア美術館で門外不出として取り扱われていることもこの作品が「幻の国宝」と呼ばれる所以となっています。

尾形光琳 松島図屏風

松島図屏風 尾形光琳 18世紀前半 ボストン美術館 (引用元)

光琳は宗達の松島図を何度も模倣

尾形光琳の描いた松島図屏風は、宗達が描いたものを模倣したもので、光琳は少なくとも4回はこの画題を描いていると言われています。

中でもボストン美術館にあるものが最も有名で、これは江戸時代のお雇い外国人で美術収集家・哲学者のフェノロサが購入し、アメリカへ渡りました。

ほぼ右隻のみを模写

両者の作品でまず、目立って違う部分は屏風の規格です。

宗達の作品は六曲一双(6枚1組の屏風が2つで1セット)で描いたのに対し、光琳は六曲一隻(6枚1組)のサイズで描きました。

鎌倉時代以降、屏風は六曲一双が主流で、江戸時代以降、武士や町民に活気が出ると二曲一双や六曲一隻などのこれまでより小さいサイズが描かれるようになりました。

サイズの違いにはこのような時代背景も関係してくるのかもしれません。

また、左隻にある松や雲のような表現がないことから、宗達の作品の右隻だけを切り取って模写したような形となっています。

よりデザイン的・装飾的に

また、波や霧の表現や、岩の形が宗達の作品と似ています。
光琳の波は宗達のそれよりも多方向にしぶきが立っており、不自然で非写実的です。これは逆にデザイン的で装飾的ともいえます。
また、3つある岩の配置が変わっていますが、そこに光琳の構図のセンスを感じます。

光琳は、京都の呉服屋の次男という家柄の影響あってか、屏風の他に、扇面や陶器の絵付け、着物のデザインなど様々な制作活動を行い、装飾的でデザイン的な作品をジャンルを問わず生み出しました。

それら様々なジャンルを手掛けてきた光琳だからこそ、「自然さ」や固定概念にとらわれない絵としての美を追求することができたのかもしれません。

光琳晩年の代表作「紅白梅図屏風」にも見られる水流や梅の模様は、後に光琳模様(光琳紋)と称されるほど有名となりました。

この作品の水紋には、その光琳紋の前段階のような、試行錯誤が見て取れるように思います。

他の光琳作の松島図屏風

調べたところ、この作品のほかに、1つは焼失、1つは大英博物館に所蔵されているそうです。

焼失した松島図屏風

こちらの作品は、残された資料を見る限りほぼ忠実に宗達の松島図屏風の右隻のみを模倣しています。

有名なボストン美術館の作品もほぼ右隻のみを模写しているように、光琳は右隻に魅力を感じたのでしょうか。

大英博物館 松島図屏風

作品詳細 | 松島図屏風 | イメージアーカイブ - DNPアートコミュニケーションズ

【外部リンク】松島図屏風 尾形光琳(伝) 2曲1隻 146.4×131.4cm 大英博物館

大英博物館に所蔵されている作品は2曲1隻。屏風としては最も小さい型に、1つの山が大きく描かれ、大きくうねる波と背後には霧が描かれています。
こちらも宗達の松島図屏風の右隻左側の、大きな岩だけを模写したとも取れる作品です。

より美しい構図を研究?

これらの作品を見ると、光琳はただ宗達の松島図屏風を模写しただけでないことがわかります。

特に宗達の右隻の構図を模写しつつ、サイズを変えながら何度も描いていることから考えて、光琳は宗達の松島図屏風のより美しい構図の切り取り方を模索していたように感じます。

絵を描くとき、「どこまでを画面に入れるか」ということは一つの大きな要素となります。

光琳は宗達の松島図屏風について、模写して技術を学びつつ、「より美しい構図」を追求していたのではないでしょうか?

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